翠文書


異教徒と平和を/1999年9月14日(火)/No.2

の中新世紀にもなろうというの に、色々な教義宗教に染まっているものも多いのである。私の友人にも居るので ある。彼はカレー教である。他にも牛丼教、ラーメン教と多 いのであるが、よく知る例としてカレー教徒の友人ナカさんを取り上げさせても らった。本人の名誉のためにナカ何さんなのかは伏せておこう。ナカ山さんかナ カ海さんかそれは追求しないで頂きたい。それでなくても宗教をやっ ているというだけで、ある種偏見の対象となるような昨今である。ましてカレー 教などというのがばれれば、彼の社会生命はどうなるか分かったものではない。 幸いなことに私は、そのような教義に染まること無く無事に今までやってこれた のであるが。まあしいて上げれば雑食教であろう。アフリカ大陸の片隅に現 れた人類がそうであった様に、肉も食えば魚も食う木の実も食うし芋も食う。雑 食。これを人類の自然な姿と言わずして何と言おう。もちろん厳しい自然の中で 生活するイヌイットが本来ならば植物由来の食物によって補われるはずの 必須ビタミンを補給するために生肉を食うのは自然なことである。ここで言いた いのは、そういった自然の営みに合わせて築き上げられてきた食生活の偏りを糾 弾することではない。自らをあえて、いや進んでかどうかは分からないが、ある 特定の贖罪、いや食材ではなく料理に身を置く事を選んだことに対する、ある種 畏敬に似た気持ちを持ちつつも、そこにおける憤りと諦めと慈愛の混ざった複雑 な気持ちの吐露である。

レー教徒に話を移そう。カレー教と言っても さまざまなレベルがあり、そこには漸進的ではあるが、明らかに症状もとい教義 への傾倒の度合いといったものが存在する。初期の段階はカレー屋を物色すると ころから始まる。 その教義に身を置くに際して、当初どのようなきっかけがあったかは人それぞれ であろう。あるものは貧しさゆえタイムサービスLジャン380円を食わざるを得な かったかもしれないし、ランチタイムビーフカレー300円に昼飯の全てを捧げて いたのかもしれない。ともあれその当初の光景が何であれ、カレー教に身を捧げ ようとしたものは、次の段階において以下のような行動が始まる。自分の生活圏 における複数のカレー屋の開拓である。ナカさんを例に取り上げよう。今までの彼 の言動によると、まず間違いなく20数軒のカレー屋の位置と定休日を把握してい る。街を歩くとめぼしい地域には必ずお気に入りの店が存在する。神保町は言う までもなく、秋葉原、渋谷、中野、新宿、池袋等々どこにおいても、自らの信じ るところのカレー教の教えに合致する店をそのストックに収めている。

の段階として、日々の食生活のカレー化が始 まっていく。ある程度カレー屋の開拓と時期を同じくして始まるのかもしれない。 毎昼食カレーと言うのは珍しくない。 ここのカレーはおいしいとそんなこと言っている内はかわいいもんである。そ ういった友人親兄弟親類縁者の居る方は、今のうちにカレー教の呪縛から あなたの愛すべき人を守るべく、手を打つべきである。早急にである。あなたが 一日その行動を遅らせるだけで、カレーがおそらく1食はその食卓に上がってい ることは間違いが無い。残念ながら私には初期の入門教徒といった友人は居なかっ たので、具体的にどのようにしてカレー教を克服するかを、教授することはできな い。非常に残念である。私の回りには最早早期発見、早期治療には程遠いカレー 教徒しか居ない。懺天使レベルである。そうなってしまえばターミナルケアを行 う様に、愛すべき友を暖かく見守ることしかできない。カレー教の初期段階は他 人から見て、その教義に傾倒しだしたかを判断するのは非常に難しい。時々会う 程度の友人ではまず見分ける事は困難であろう。一つ手がかりをあげるとしたら、 「カレー食いに行かない?」という言葉で端的に発せられる 言動であろう。2度続いたらもう手後れになった後かもしれない。それほどまで に早期発見は難しいのである。

して友人らがその兆候を捕らえること無く、 ある期間を門徒としての修行に費やした彼に待っているのは、肉体の変容である。 カレー教徒として押しも押されぬ姿になったと、同門のものならば喜ぶべき変化 であろうが、我々は最早そこに彼を救うべき手がかりを失う。ここでナカさんの 言動を引用しよう。「まずカレーを食わないと体調が悪い」 のだそうである。腸の調子が変だというのである。「夜中に訳も無くカレー が食いたくなってたまらなくなり、車を走らせカレーを食いに行った」 ということもそう少ないことでは無いそうだ。私は涙を禁じ得ない。そこにあえ て救いを見出すならば、彼にとってそれは喜びであり、苦痛苦役では無いという ことであろう。その一点において私はカレー教徒となった彼を許すことが出来る のである。

かしそんな事では終わらないのである。蛹が 孵化するようにさらに一段、カレー教は彼を変容させる。すべての宗教がそうで あるように、彼は同門を増やすべく布教活動を行うのである。その程度は人によっ て違いがある様だが、ここではナカさんの例を出そう。飯を食いに行くときは、2言 目には「カレー喰おう」である。お気づきになられただろう か?初期の段階は疑問、もしくは要請である。しかしこの段階において発せられ る言葉は形式上はともかく、実質は命令形以外の何物でもない。「あの カレー屋うまいんだよね」もよく聞く。残念ながらこの言動はカレー 教の従順な僕となっている者の言である。相当に割り引いて考えなければならな い。本人にとっては最早、うまいまずいといった状態を通り越しているのである。 いや彼の中にわずかに残る理性が、同門を増やすべく「おいしい」という言葉で 勧誘を試みようとしているのかもしれない。しかし、この段階においてその言動は 形骸を残すのみである。何か血中の重要な物質が欠乏したかの様に、体が欲しが る。これは本人自ら「ドーピング」であると認めている。最 早それ無しでは生活できなくなっているのである。ここに至りカレー教の真の恐 ろしさを目の当たりにする。早期発見が必須であると言った意味がお分かりだろ うか。これは本人の食生活の問題では無くなっているのである。彼と行動を共に する全てのものが、半ばカレーを強制されるのである。入った途端「ナミツユダ クギョク」と言わん勢いである。これは牛丼教のマントラであるが。

たしは自らは信ずる教義が無いのであるが、 カレー教にも牛丼教にも寛容な方であると思う。だが満足そうな顔でカレーをた いらげると、悠々と店を出る背中を見るにつけ、ただ彼の幸せを願わずにはいら れないのである。

さあデザートにもう一軒行くか!

ナカさんまたカレーですかぁ?