翠天雑記帳 雑文


コロナにて/2000年1月17日(月)/No.13

敏夫は秋葉原に買い物に行くと、その帰りは古炉奈でコーヒーを飲むのが習 慣だった。JR秋葉原駅の駅舎から100歩もあるかないだろう。高架下の電波会館 2Fにある喫茶店だ。窓から下を見ると、横乗り系ギアの練習に励む少年達が向かい の公園に見える。もちろん晴れた日が無いわけないのだが、記憶の中での窓の外 はいつも曇りだ。ひっきりなしに通る運送トラックや、大きな家電製品を抱えた 家族連れと賑わいの絶えない通りだが、中は秋葉原の喧噪から一歩離れ、落ち着 いた雰囲気が歩き疲れた彼の足を癒してくれた。

いつもの水出し珈琲を頼む。ラッキーだ。今日はまだ残っていた。炭焼珈琲 の店だがやはりこの店はこの珈琲なのだ。限定メニューで香りが断然違う。ウェ イトレスが店の奥に戻るとしばらく外を眺めていたが、そのうちそれにも飽き、 店の中を観察し始めた。丁度真後ろに若いカップルが座っている。真後ろに彼氏 に熱心に話をしている女がいる。我ながら趣味が悪いとは思いつつも二人の話に 耳を傾ける。

「それでやっと歓迎会になったの。もうお店が全然空いてなく て、それで二次会に行きたいバーがあったから、その近くがいいなーって思っ て探したんだけど、もうほんとに込み合っていて全然予約できなくて、でも5人 ならいけるっていうからお願いして7席入れてもらうことにして」

気のせいかもしれないが男は黙りっぱなしだ。いやそうではない。女がしゃ べりっぱなしなのだ。そんなもんだ。脳の出来から女はよくしゃべるものと決まっ ているらしい。脳の使う部分が違うらしいのだ。それにしても話が途切れない。 これは驚嘆に値すると言っていいのではないか。落語独演会に出してもこうはい かないだろう。高い声で途切れることなく続く話は友人の話になったみたいだ。

「そしたらさ、久美子がねー、あ、久美子ってのは友達で今は フリーターやってんだけど、すっごいへんな所にバイト行ってんの、それが血液 製剤の研究所だかで、毎日血の入った試験管振ってるんだって。そういうのバイ トでもいいんだねーって話になって」

精神医学の面から見ても意味のない会話は必要なものだ。人間はそもそも群 れる動物なのだ。そこでのコミュニケーションはどんなものも欠かせない。会話 に結果を求めがちになってしまう敏夫はそんなことを思った。内容のある情報交 換を求めるのは会社だけでいい。リラックスしているようでいていつも相手の情 報に探りを入れる。そんな会話は疲れるものだ。結果を求めない無意味な会話が 人間の精神にいかに重要かを、このよくしゃべる女は無意識に知っているのかも しれない。

「試験管って学校で使ったよねーなんか振るのがかっこいいよ ねークモ捕まえるのに使ったことあるよ、理科室から取ってきたのを隠し ておいて使うんだけど、」

いやしかしだ、文脈としてつながらない話は聞いていて疲れる。なんとかな らないものか。話題が右から左へとどまるところがない。こうあれやこれやと話 されては、相づちを入れることもできないし、第一話が終わらないのはどうにか ならないものか。初めは歓迎会の話じゃなかったのか。他人事ながら少し気に障っ た敏夫は、ふと知り合いの女性を思い出した。そういえば彼女は妙に話が上手だっ たっけ。

上手というのでは無いな。彼女と居ると落ち着いて話をできるのだ、そうい えば私と話すとき彼女はあまり長く話さない。二言三言話すと話すとこっちに話 を振る。それに話を返す。元来無口な敏夫はほんの少し感想の様なものを言うだ けだ。そういえば彼女、他の人と話すときは結構長く話しているような気がする。 もしかして私と話すときは、こちらのペースに合わせていてくれていたのだろう か。そう考えると合点がいく。なんてこった、いい気分で話をしてたのは彼女が 誘導してくれていたのか。今頃気が付くとは。己の鈍さ加減にあきれつつも、そ んな気遣いができる女性に好感を覚えた。

思うに社会に出て揉まれた人というのは、聞く話すの繰り返しができている 様な気がする。一番ひどいのはいきなり結婚して専業主婦になった連中の様な気 がする。何かと気づく暇が無い分伸び放題伸びてるといった感じか。言いたいこ とをうまくまとめるという作業を経験しないまま来てしまうと、相手の話を聞く といった基本的なことも忘れがちになるのだろうか。いやこれもかなり偏見入っ てるなと思いつつ、血液型分類と同程度のありがちなタイプ分けに一人納得して いた。

「水出し珈琲お待たせしました。」

ああ、やっと来た。これこれ、まず香りを楽しむ。それから一口飲む。今日 も変わらない味だ。後頭部から響いていたノイズを忘れて珈琲をすする。香りが 消えるから砂糖もミルクも入れないのが習慣だ。

気がつくと会話、いや話が終わっている。男はしゃべりだした。そうそうさっ きから君がどんな声なのか気づく暇も無かったさ。このおしゃべり好きの彼女に、 どんな話しをするのか是非とも聞かせてくれたまえ。敏夫は珈琲を口に運びつつ 聞き耳を立てる。

「あ、えーと、こないだ長門と神保町に行ったんだ」
「長門君?長門君とずいぶん会ってないなー、最後に会ったのは半年くらいまえ でねー」
「うん」
「そしたら隣にいたのがねー」

おい彼氏、君が話し出したんじゃないのか?また彼女が話してるよ。それで いいのか。君らいったいどういう関係だ。芸人と客か。いや芸人ならちゃんと客 を笑わせるぞ。彼氏黙ったままだろ。妙な緊張感を覚えた敏夫はコーヒーカップ を置くと、思わず後ろを振り向いて二人の顔をのぞき込みたくなる衝動を抑えた。

「ねえ、黙ってないで何かしゃべってよ」

あぁ、若い二人に祝福あれ。そう心で祈ると敏夫は伝票を掴んだ。窓の外は 今日も曇りだった。