翠天雑記帳 雑文


電車移動圏デバイス/6月12日(火)/No.19

公共交通網の発達した場所でこそハンドヘルドコンピュータは進化していく のではないだろうか?そこには「細切れの暇」による場の存在が大きいと考えている。

ハンドヘルドコンピュータというコンピュータの分類がある。 Palmやザウルス、WindowsCEで動くものLinuxのものと詳しく見ると色々あるのだが、 つまりはトランプのカードみたいな形をしていて、手のひらに乗せて使うコンピュータだ。 基本的にキーボードは付いていない。画面を爪楊枝の様な棒(スタイラスと呼ばれる) でつっついたり絵を書いたりして使う。 普通音声認識はしてくれないのでボタンやスタイラスで色々な機能を選択して動作させる。

こういうデバイス(機器)を私は東京に住んでいた頃かなり便利に使っていた。 次の電車や路線を調べる。小説を読む。揺られる車内でふと思いついたことをメモする。 今だったら音楽を聞く、あらかじめ家で録画しておいた朝のニュースを見る、 電子メールを受信する。webを見るなんてことだって可能になっている。 あと数年もすればもっと色々なことが出来るようになっているはずだ。

カード型のコンピュータはいつでも即座に使えるのでとても使いやすい。 まず人前で取り出してもそんなに威圧感を与えない大きさである。 (人前で手帳を取り出してもあまり驚かれないが、A4のファイルを開いたら、 いったい何を始めるんだと気になるに違いない。) それにほとんど一瞬でコンピュータを使える状態にすることができる。 机の上に乗っているデスクトップPCやノートPCと呼ばれるコンピュータは 起動に時間がかかるのだ。数分かかるものもある。 動作中の内部状態を保持したまま休止する方法(サスペンドやレジュームと呼ばれる) もあるがこれでも復帰に10秒程度はかかる。とにかく作業を始めるまでが遅い。 ハンドヘルドコンピュータの場合は何かの待ち時間に ちょっと取り出してゲームを楽しむことだって可能だ。 コンピュータというより任天堂のゲームボーイに近い物体かもしれない。

ところが最近実はあまり使っていないのだ。 使用頻度が東京にいた頃よりめっきり下がっている。 それは車で移動するようになってしまっているからだ。その時はたと気が付いた。 ハンドヘルドは電車移動圏デバイスなんだ。 東京の生活を考えると、ハンドヘルドを使うのはいつもちょっとした待ち時間だった。 電車の中やホームで次の電車を待っている時。そんな時間だ。 そういえば携帯でメールを打っている人もそんな時間に打っている。 ところが車で生活するようになってしまうとそんな暇は無い。 待ち時間ったって精々信号待ちくらいだ。 ハンドヘルドを取り出して何かする時間は無いのだ。

例えばPalmOSはアメリカ生まれのビジネス用電子手帳だった。 だがアメリカで電車移動という状況はあまり多くない。車を運転してしまうから。 使うのはオフィスの中や自宅だ。 標準で元から入っているソフトだけを使う人が多く、 フリーソフトを導入して使っている人は少数だとも聞く。 車生活をするようになった私の実感からすると、 つまりちょっとした暇を使ってハンドヘルドを使う理由が 無いということなのじゃないだろうか。 日本人がPalmOSマシンを使う場合、 ネット上等で配布されている標準以外のソフトウェアを導入して使う人が多いらしい。 国民性の違いもあるだろうが、私は公共交通網の使用から生まれる「暇」が ハンドヘルドの文化に大きく影響を与えている様な気がするのだ。

日本は世界一と言って良いほどの公共交通機関の発達した国だ。 東京、大阪といった大都市には数百万単位で公共交通機関を利用し、 移動する人々が生活している。 そして数百万の人が電車にゆられている間、乗り換える間、待つ間、 「細切れの暇」を持て余している。 そこでハンドヘルドがどんどん進化するのは当然だったのだ。

日々の生活に密着してハンドヘルドコンピュータが進化していくとしたら、 東京や大阪が技術の孵卵場として最高なんじゃないだろうか。 日々電車の中で何度となくハンドヘルドを使うユーザがそのまま開発者であれば ユーザが欲しいハンドヘルドを作る可能性が非常に高くなる。 ソフト制作者がユーザなら、日々の生活の「必要」を発明してくれるに違いない。 実際、時刻表ソフトなんてその最たる物ではないだろうか。 そしてエンドユーザのニーズもそこにある。 携帯電話とハンドヘルドを同一視するのは危険な気もするが、 もしかして「i-mode」も公共交通網が無ければここまで人気が上がらなかったかも。 ハンドヘルドの進化にはそんな「細切れの暇」によってもたらされる 場の存在があるのではないだろうか。